神戸一の歓楽街が近く、にぎやかな街は、あの日の大空襲で一夜にして見渡す限り焼け野原となった。炎に囲まれ、自らの死を覚悟した女性は、目の前で起きた惨状を戦後80年になるいまも、克明に覚えている。
神戸市中央区の仏画家、豊田和子さん(96)は、歓楽街だった新開地や遊郭があった福原に近い商店街で育った。家は時計宝石店を営み、通りには商店がびっしりと並んでいた。
コーヒーの香りが漂う喫茶店に、外観がおしゃれなカフェ、卵屋、芋屋、下駄(げた)屋、牛乳屋……。看板屋が描く映画館の大看板に目を引かれた。
芸者を抱える置屋が軒を連ねる路地では時折、三味線の音が聞こえ、夕方には化粧をする芸者の姿が見えた。通りは子どもたちの遊び場でもあり、めんこや、まりつき、縄跳びなどに興じた。
豊田さんは「活気があって、とにかくごちゃごちゃしとった」と笑う。
六甲から移り住んだ年に日中戦争が始まったが、まだ食べ物も街のにぎわいもあった。ただ、次第に街の風景は戦争の色が濃くなっていった。
小学校を卒業後、神戸市立第一高等女学校に入った。その年の12月に太平洋戦争が始まった。
若い男性は次々と戦場へ召集されていった。豊田さんの父は軍需工場へ働きに行くようになった。街角では千人針を集める女性の姿もよく見かけた。
女学校では制服のスカートが禁じられ、もんぺ姿になった。学徒動員で工場で働くことになったが、豊田さんは病気の影響で行けず、非国民扱いされたのがつらかった。
母が叫んだ直後、すぐ後ろに焼夷弾が
1945年3月17日未明…